江藤新平復権・島義勇顕彰フォーラム (第二部・第三部)

江藤新平復権・島義勇顕彰式典の第二部はシンポジウムが行われました。佐賀の八賢人おもてなし隊による劇に続き、佐賀戦争の真相に迫ると題し、作家の井沢元彦氏の基調講演が行われました。このような内容でした。

幕末、佐賀藩はフェートン号事件をきっかけに西洋近代化の必要性を認識し、他の班に先駆け近代化を進めた。薩摩・長州は、自分たちが血を流して戦ったのに佐賀藩は何もせず成果を得たと考え、不満を抱いていた。
明治初期に欧米視察団が設立され、伊藤博文や桂小五郎が参加した。公家出身の岩倉具視に近代化を目覚めさせることが目的だったともいわれている。
視察で政府に薩摩・長州勢が手薄になり、そこに近代化に必要な人材が起用されたが、佐賀藩出身が多かった。このことを長州の大久保利通はよく思っていなかった。
江藤新平は長州藩の不正を追及しようとしたが、大久保の策にはめられ佐賀戦争で失脚、裁判は大久保の息のかかった裁判官によって不当に行われ、廃止されたはずの獄門さらし首により処刑された。大久保は江藤が最期に武士として見苦しい態度を取ったと情報操作したが、裁判を見た人はそのようなことはなかったと言っている。また、江藤のさらし首がわざわざ写真に撮られて(当時は撮るのに数十分かかる)新聞に掲載された。

諸説あるとは思いますが、興味深い説だと思いました。この後のパネルディスカッションで、山口知事は「レッテルを貼られることは怖いこと」(江藤に不名誉なレッテルを貼られたことについて)と述べました。

第三部は関係者による交流会が行われました。会場入口には、札幌の山鼻地区から運ばれてきた島義勇像が立っていました。山鼻地区の方が前日に入って着付けたのだそうです。この島義勇像は北海道神宮例祭の第三山鼻祭典区の人形山車に乗っていますが、島義勇顕彰の集いなどでもお目見えします。

冒頭、佐賀東高校演劇部による歴史演劇が行われました。江藤新平の妻千代子、息子熊太郎と新作について触れられた内容でした。千代子は新平の処刑後に85歳まで生き、1916年に江藤新平に正四位が送られる(佐賀戦争の罪が晴らされた)のを見届けてからこのを世を去りました。

佐賀県では乾杯を日本酒で行う条例があります。日本弁護士連合会の渕上玲子会長からの乾杯の挨拶の中で、明治が始り当初は裁判は司法省であったが、行政から司法を分離することに貢献したと江藤の功績の一端が紹介されました。乾杯のお酒は「鍋島」でした。

江藤新平復権・島義勇顕彰式典は三部にわたり盛大に開催されました。江藤新平と島義勇の功績を再認識することは次の時代を創るための重要な示唆となると考えています。開催にあたり尽力された山口知事や佐賀復権推進チームのみなさまをはじめ、携わったみなさまに心より感謝申し上げます。